日本聖書協会発行『アートバイブル』より
『アートバイブル』の絵の使用については、当サイトより日本聖書協会に申請をして、同協会より許諾を得ています。」2007N10010
●聖書からの黙想は、:坂野慧吉著「創世記」『新聖書講解シリーズ:旧約1」(いのちのことば社発行):を参照しています。
「名画で巡る聖書の旅」
バイブル・アンド・アート・ミニストリーズ /
代表 町田 俊之
■17回 ドウッチオの「エルサレム入城」(1311年、シエナ大聖堂美術館)
17、ドウッチオの「エルサレム入城」<アートバイブル:p.112>
◆ 聖書箇所
それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら,『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。
柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうちの大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。
「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られた方に。
ホサナ。いと高き所に。」
こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。
-マタイ21:1〜11節-
◆聖書からの黙想
いよいよこの章からイエスの最後の一週間が始まる。キリストは週の初めの日の日曜日にエルサレムに入城された。イエスは入城するために、ろばを借りに行かせた。それはゼカリアの預言が成就するためであった。メシアが平和の王としてろばに乗って来られると預言されている。馬は武力としての象徴であるが、ろばは荷物を運ぶための動物であり、柔和な平和をもたらす王として来るという意味である。それはローマの圧政から武力によって救いをもたらす政治的権力をもった王ではなく、人々に仕えることによって平和をもたらす王としての入城であった。
イエスがろばに乗ってエルサレムに入ると、群衆は上着や枝を道に敷いて、イエスを歓迎した。ホサナとは、「主よ、救ってください」という意味であるが、群衆はイエスを預言者の一人として見てはいたが、救い主とまでは認めていなかった。後にイエスを十字架につけたのも、この群衆の声であったが、人間は一時的に熱狂主義者になりやすいこともここに示されている。
◆ 画家ドウッチオ(1255-1319年)について
シエナ派の指導的画家。ビザンティン様式からの生硬さから完全に脱してはいないものの、その人間制の表現の萌芽は、彼の同時代のフィレンツェのジオットと並ぶイタリア・ルネサンスの先駆者であった。
◆絵画からの瞑想
絵を全体的に見るとキリストがエルサレムに入城されることを多くの群衆が喜んで迎えていることが鳥瞰的に描かれています。ルネサンス時代の少し前のシエナ派の画家、ドウッチオによって描かれました。イエスを迎える人々は、シュロの葉を持つ者、上着を道に敷く者・・・そして、木に登って眺めようとしている者たち。また、お互いにうわさ話をしているような人々でした。
一方、キリストは堅い決意で、過越の祭りの始まる週の始まりの日に、このエルサレムに入城されました。それも騎馬に乗ってさっそうと入城されたのではなく、ろばに乗り、ゆっくりと街の中に入って行かれた様子です。騎馬は勝利、制圧の象徴ですが、ろばは柔和、平和の象徴でした。
イエスは、人々を上からの力と権威で押さえ込むようなお方ではなく、自ら低くなり、人々に仕えることによって、真の平安と解放を与えようとされた方でありました。数日後には、人類の罪の赦しと解放のために十字架につけられますが、その直前の行為がその精神を表わしておりました。