弟子の足を洗うキリスト

 


目次

◆天地創造
◆アダムの創造
◆女の創造
◆蛇の誘惑
◆楽園追放
◆楽園追放
◆カインとアベル
◆ノアの箱舟
◆大洪水
◆鳩を放つ(ミレイ)
◆鳩を放つ(ドレ)
◆ノアの祭壇
◆受胎告知
◆羊飼いの礼拝
◆東方三博士の旅
◆三博士の礼拝
◆エルサレム入城
◆弟子の足を洗うキリスト
◆最後の晩餐
◆ゲッセマネの祈り
◆聖衣剥奪
◆十字架の下での悲しみ
◆十字架降下
◆我に触れるな
◆キリストの洗礼1
◆キリストの洗礼2
◆悪魔の誘惑
◆ペテロとアンデレの召命
◆マタイの召命

日本聖書協会発行『アートバイブル』より
『アートバイブル』の絵の使用については、当サイトより日本聖書協会に申請をして、同協会より許諾を得ています。」2007N10010 ●聖書からの黙想は、:坂野慧吉著「創世記」『新聖書講解シリーズ:旧約1」(いのちのことば社発行):を参照しています。

「名画で巡る聖書の旅」

バイブル・アンド・アート・ミニストリーズ / 代表 町田 俊之

■第18回 ブラウンの「弟子の足を洗うキリスト」
  (1851-56年、ロンドン、テート・ギャラリー)

18、ブラウンの「弟子の足を洗うキリスト」<アートバイブル:p.120>

◆ 聖書箇所

 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世に居る自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいを水に入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
  こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。   - ヨハネ13:1〜11節 -

                         

◆聖書からの黙想

 イエスは、ご自分にとってこの世での最後の過越の祭りの食事を弟子たちとともにとろうとされた。それは愛する弟子たちへ最後の愛を表わすためであった。イエスによる弟子への洗足の意味は、その行為を通してしもべとしての姿をとられたことである。この行為は後に十字架にかかられるイエスの業を先取りしているものである。その意味を知らない弟子たちは、イエスの行為に対して驚きとともに拒絶の態度を取るが、それは十字架を否定することにつながるものであった。
  イエスは、命を投げ出して仕えることによってのみ、きよくなることをご存知であられ、弟子たちへの最大の愛は、仕えることによってのみ実現することを示された。

◆絵画からの瞑想

 この絵は、見た瞬間にイエスの謙遜な姿を私たちに教えてくれる感動的な作品です。そこには誇りも見栄も、相手への見せしめもなく、ただ淡々と弟子の足を洗っているイエスの姿があります。本当の愛とは、目の前の人物に対して心から仕えることにありました。しかし、それはイエスが父なる神との交わりの中で、その父からこの世に遣わされたこと、そして、もうすぐに父の下に帰ることが明確であったからこそ、この世の者に対する愛が示されたのでした。
  本物の愛を示された弟子たちは、皆その行為に驚いています。見せかけや偽者の多いこの世にあって、イエスこそ、人を愛するとはどういうことであるのかを私たちに示してくださったのです。十字架の刑を前にして自分の運命を嘆くのではなく、最後まで人に仕え続けたイエスこそ、私たちの罪の赦しと解放のために歩まれたお方でした。


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