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著者プロフィール


われも行く 天つ御国よ 故郷(ふるさと)よ

――続 哀歓キリスト教葬儀――


疋田 博


白い花

(一)

私が以前行っていたキリスト教会は二階建ての借家で、下は六畳二間、教会員は十人程度の小さな教会だった。
そこにある日菅井という男が来た。彼の住まいは教会の近くで、時々教会の前を通り、賛美歌などが聞こえると、一度入ってみたいと思っていたそうだ。年は五十ぐらい、背は低く小太りで、いつもニコニコしている。
彼は近くにある小さな警備会社でアルバイトをしているということだった。正式には採用してもらえず、仕事も月のうち半分ぐらいのようだ。
彼は教会が気に入ったのか、毎週日曜日になると礼拝に来るようになった。時間前にだいぶ早くから来て、来る人来る人にお茶を出す。まるで十年も前から来ているような態度だった。
彼は私の仕事が葬儀屋だと知ると、働かせともらえないだろうかといった。
「葬儀は毎日あるんですか?」
「とんでもない。平均すると月に二回半ぐらいじゃないかな」
その頃の私の仕事はそんなものだった。
「へえ、それでやっていけるんですか」
「いやあ、なんとかね。月平均三回か4回ぐらいやるといいんだけどねえ」
「葬儀のときには手伝わせてください。お願いします」
彼が何度も熱心に頼むので、葬儀の時には一日一万五千円で働いてもらうことにした。
「ありがとうございます。恩に着ます」
と彼は何度も頭を下げた。

私はキリスト教葬儀を専門にやっているのだが、葬儀が発生するといつも須藤君と中西君に手伝ってもらうことにしている。
須藤君は五十五、六で、息子と二人でペンキ屋をやっているのだが、葬儀のときには彼に電話をして来てもらう。彼はペンキ屋よりも葬儀のほうがおもしろいのか、仕事は息子に任せてすぐに飛んできてくれる。
中西君は火災保険の外交員だが、これもすぐに来てくれる。彼らの日当は一万五千円だ。
普通、慣れていないものには八千円ぐらいですむのだが、菅井君は生活に困っているようなのでベテラン並みの一万五千円という賃金を払うことにしたのだ。
もっとも生活に困っているというだけではなく、須藤君と中西君はノンクリスチャンだが、菅井君は教会に来ているということで私にはそれが嬉かったのだ。
彼は性格もよく、いつもニコニコしているので教会員のみんなから好かれていた。教会員に限らず彼は誰からも好かれた。そして彼の穏やかな性格は遺族の心を慰めるかもしれない、そう思った。 

彼は実際に心の優しい男だった。いつだったか葬儀のときに子供が泣いていたことがある。子供は五歳ぐらいだろうか、大勢の会葬者で込み合っている会堂の通路で泣き出してなかなか泣き止まない。母親が外へ連れ出そうとしたがどういうわけか動こうとしなかった。すると菅井は近づいていき声をかけた。
「どうしたの? え、どうしたの? ほら、これあげる」
そういって彼はポケットから飴のようなものを取り出して女の子に渡し、
「おいしいよ、おいしいよ」
といって頭をなでた。
不思議と女の子は泣き止んだ。
若い母親はうれしそうに、
「よかったねえ」
といい、
「ありがとうございます」
といって菅井君に何度も頭を下げた。
私が後で、
「よくそんなものを持っていたねえ」
と彼に聞くと、
「子供が好きだからいつも持っているんですよ」
と彼はいった。
葬儀の仕事中にはあまりニコニコしてはいけないのだが、彼の笑顔は人を和ませるものがある。彼は教会の先生にも遺族にも評判がよかった。私は仕事が忙しくなり利益も上がるようになったら、いずれ彼を正式な社員にしたいものだと考えていた。
しかし 私は彼について不思議に思うことがあった。
それはどういうことかというと、教会に来る人間というものは何かしら悩みを持っている者が来るものだ。

人間には誰しも悩みがある。そしてたいてい人はその悩みを自分で解決しようとする。けれども自分の力で解決できない場合に人は、ある大いなる力にすがって解決しようとする。その大いなる力とは、つまり神である。教会に来る人間というものは自分自身ではどうしようもなくなって神に助けを求めに来る人間なのだ。
つまり教会に来る人間は、いや、宗教に頼ろうとする人間は、普通の人よりも弱い人間なのである。
普通の人。
普通の人とはどのような人間だろうか。
それは宗教に頼らない人間のことである。
つまり奇跡などは信じない。つまり科学的、合理的人間である。

イエス・キリストは死んで三日目によみがえった。そして復活した。
キリストを信じるものはキリストと同じく死んでも生きるのである。
キリストを信じる者は永遠に生きるのである。と、このようなことを信じるものは普通ではありえないと人はいう。
確かにクリスチャンというものは変った人間であるかもしれない。
そして教会に来るものは普通の人よりも弱い人間なのである。弱いから神に助けを求めずにいられない。
そう、クリスチャンとは弱い、変った人間である。
しかし、私はそのことをかえって誇りに思う。
なぜなら弱い人間からこそ神を知ることができたのだから。

けれども菅井君はそういうタイプではなさそうだ。彼には悩みなどはなく、屈託もなく、いつもニコニコしている。このような人間がなぜ教会に来る必要があるのだろうかと不思議に思うのだ。
確かに教会に来るとみな親切にしてくれるので居心地がいいのかもしれない。
彼もこの教会が彼にとって居心地のいい場所であるのかもしれなかった。
そして私の仕事も彼は気に入っているようだ。
葬儀の後、私は彼についてよく遺族からお礼を言われることがある。
「あの人はほんとによくやってくれました、よろしくいってください」
「あの人はほんとに心の優しい人です。有難うございましたといってください」
そういわれるたびに私は、給料をちゃんと払って正社員にしたいものだと思った。
彼はほんとに人々から好かれる。
彼はクリスチャン以上のクリスチャンだ。彼はクリスチャンではないが、あの心の優しさをクリスチャンは見習わなければいけないと私は思った。

しかし何ヶ月かするうちに、彼にはいろいろと欠点があることが分かってきた。
彼はよく物忘れをしたり、勘違いをする。
遺族に写真をもう一枚欲しいといわれたのをころりと忘れてしまい、大目玉を食ったがある。これなどはまだ良いほうで、岩井市で葬儀をしたときには骨壷を忘れたことがある。
岩井の火葬場では骨壷は置いてないということなので、前日のうちに骨壷を車に積んでおくように菅井君に言っておいたのだが彼はそれを忘れてしまった。私も出かける前に点検しなかったのが悪かったのだが。
火葬する段になって炉前の従業員から「骨壷は?」といわれて菅井君に持ってくるようにいうと、車の中を探して、
「あれ、ないや、そういえば積まなかったかなあ」
などと案外のんきな顔をしていた。
私は真っ青になってしまった。
そのときにはマイクロバスの運転手が、近くに知っている葬儀社があるから私が行ってきましょう、といってあの大きなバスを飛ばして時間までに持って来てくれたからよかったものの、あれが火葬が終わるまでに間に合わなかったらどんなことになったろうかと思うと今でもぞっとする。
また時間などもよく間違える。
前夜式が六時からということで、三時にはここを出なければならないことになっていたのだが来ないので車で彼の住んでいる団地まで迎えにいったことがある。
たしか扇の都営団地の十五号棟だと聞いている。

T信用金庫の交差点を渡ったところで、向こうから彼がやってきた。
これから買い物に行くのだといった。
「えっ?」
仰天した。
「三時といったのに買い物に行くとはどういうことだい」
「なるほど、そうでしたね」
といってまたまたのんきな顔をしているのには参った。
六時に私のところへ来るつもりだったようだ。
「六時に式が始まってしまうんだよ」
「なるほど、それもそうだ」
などといって感心している。
物忘れをしたり、勘違いをするというのは彼の性分でどうしようもないことのようだった。しかし勘違いといっても常識では考えられないような勘違いだ。
こういうことが度かさなるので、残念だが半年後には辞めてもらうことにした。
私には彼がこの50年を無事に生きてこられたのが、不思議でならなかった。
彼はそれでも教会には来ていた。そしていつもニコニコしていた。彼は相変わらず誰からも好かれていた。

その後この教会は消滅した。というのはこのあたりが区画整理をすることになり、教会は葛飾のほうへ移転したからだった。葛飾では遠すぎる。
十人のうち半分はそれぞれほかの教会に移っていった。私もそれ以来今の竹の塚の教会へ通うようになった。
菅井君はそれ以来どうしているのか会うことはなかった。

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