季刊誌 会報 「創刊第壱号」2009,6,1 |
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季刊誌 会報 ニュースレター |
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事務局:〒486-0917 愛知県春日井市美濃町2-207-2(川口一彦氏宅)
℡&ファクス 0568-36-1924、携帯09039557955955 |
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創刊第壱号(2009年6月発行)
目次
①巻頭言
②各国で発見された景教徒のシンボルの十字
③古代日本に景教徒が来たことへの再検討
④景教と福音の結実化について考察する
⑤古代東方宣教について
⑥シルクロードから悠久の旅を経て
⑦会計報告 |
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巻頭言 |
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穂森 宏之(イーグレープ代表)運営委員 |
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「シルクロードを東に向かったキリスト教『 』」
小社発行の川口一彦編著『景教』は、2002年8月1日に初版第1刷を発行して、早いもので7年が経過しようとしております。その間、本書は版を重ね4刷目となっており、読者が本書を勢いよく手にしているようには見えませんが、途切れることなく売れ続けております。その要因の一つは、本書に匹敵する類書が見当たらない点と内容の豊かさ確かさにあります。
この『景教』上梓を機会に、北京、西安、内モンゴルを中心に景教遺跡巡りツアーを主催、さらに景教セミナーを東京、愛知、京都、秋田、岡山その他の地で開催して参りました。いずれのセミナーやツアー参加者も新しい発見とその地でしか味わう事の出来ないすばらしい体験を重ねてまいりました。
この度、時が満ち既に経験を重ねた活動を基本に、さらに内容の充実を図り、少しでも多くの方々に福音宣教の歩みと浸透の姿の理解を深め、その恵みの深さを共有させて頂く場となることを願い「日本景教研究会」を発会いたしました。近い将来には、「日本景教記念館」の設立が果たせますようにとお祈りをしております。このビジョンの実現のために、皆様ご賛同の上、ご入会下さいますよう心よりお願い申し上げます。
片桐進(秋田放送「希望の光」ラジオ牧師)運営委員
『21世紀はアジアの時代』
私たちは、2000年という画期的な時期に生かされており、後世の人々はミレニアムの時代に生活していた人々を「いい時期に生きていたなー」と思われることでしょう。なぜならBC2000年のころも、信仰の父と言われたアブラハムの召命など画期的なことがありました。
21世紀を迎えて数年経過しましたが、宣教学的にも「アジアの時代」と言われます。約束の地カナンを舞台に繰り広げられた聖書の壮大な歴史は、その後欧米を含む世界宣教によって福音が伝えられて来ました。
そして、アジアの北緯10度~40度の国々が、世界各国より注目されています。この所は世界の三大宗教の発祥地でもあり、重要なところです。この所における福音宣教の歴史はベールに包まれた面もあり、これからの研究課題でもあります。
かつて景教がこの所に福音を伝えた足跡が、近年すこしづつ明らかにされつつあり、これからのアジア宣教のために、それを研究することが大切ではないでしょうか。日本の古代史においてもその影響を受けている可能性があります。
日本の文化形成にも影響を与えた可能性のある景教を、共に関心をもち「21世紀はアジアの時代」に先駆けて、その足跡を研究し、さらにアジアに仕えていくことが出来ますようよう、協力し合いましょう。
川口一彦 運営委員長
「景教-会報誌の活用理由の一つ」
今日、景教遺跡の新発見や景教に関する新論文があり、過去の名著の論説に対して新しい見解を述べる論者もあれば、誤記もあり、会報誌上での論文発表や誤記訂正など、景教に関して様々な見解を発表する場として活用して頂くためにもその場を設けました。誌上をにぎわせて下さい。
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【ニュース】 |
①4月29日、運営委員でイーグレープ代表の穂森宏之氏の会社創立7周年記念事業開催。川口氏が「東周りのキリスト教・景教」と「漢字と聖書」を講演。イーグレープから「景教」好評出版。
②「海のシルクロードの出発点 福建」が各地で開催。
福建省からの展示物に右の景教徒墓石が展示公開。
右は14世紀頃の景教徒墓石(中国福建省泉州での作)
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1. 各国で発見された景教徒のシンボルの十字(川口一彦) |
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左のモニュメントはインド南西部ケララ州コッタヤムのシリア正教会に置かれている。これは使徒トマスと東方教会の伝道によって建てられた。
十字外周のシリア文字は、「メシアと上なる神と聖霊を信じる者は、十字架の上で裂かれた恵みによって贖われる」とある。6世紀から9世紀の作。
十字の上部と左右の先端は景教関係の十字型と似ている三位一体神を表現している。
十字型を支えている植物は、なめつめヤシで景教碑の植物と共通している。 |
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ペルシア湾のカーグ島出土
6世紀頃の作 |
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ウズベキスタンで7-8世紀の作
景教徒たちの納骨箱 |
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大秦景教流行中国碑の上部
(十字、雲、七枝、花) |
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2. 古代日本(700年代)に景教徒が来たことへの再検討(川口一彦) |
以下の「続日本紀」には渡来人について多く記してあり、「唐人」「波斯(ペルシア)人」の記事もある。ところが「続日本紀」に「唐人」としか記載されていない部分を「景人」と誤記引用した結果、古代日本に「景教徒」が来たとの決定的な歴史的資料を作ってしまった。その結果、この表記だけで景教徒が来日したかのような誤りや混乱が生じている。
以下は『続日本紀』の漢文と現代訳、下線は評者による。
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「唐人」を「景人」としたのはどの著書からか。
①『景教碑文研究』佐伯好郎著、待漏書院、明治44(1911)年発行の15頁以降に「天平八年秋七月、庚午入唐副使従五位上中臣朝臣名代等唐人三人波斯人一人拝朝 又曰く 十一月戌寅天皇臨朝、詔授入唐副使従五位上中臣朝臣名代従四位下、景人皇甫東朝、波斯人李密醫等授位有差」とあり、景人の表記と七月との表記が誤記で、ここから誤表記が始まっていることになる。
②『日本基督教史(上巻)』山本秀煌著、新生堂、大正14(1925)年発行の1頁に「景人皇甫来朝」とあり、「李密醫とは・・ネストリアン派の宣教醫士ミリー其の人であった事は容易に推定し得らるるのである。」(1-2頁)そしてこの李密醫の来朝によって、聖武天皇の光明皇后が「多少景教的基督教の思想に接し感化を受けたのは疑ふべからざる事実である。」と断定的に記述している。
③『日本基督教史 全』比屋根安定著、昭和24(1949)年の教文館発行の1頁第一篇 伝来時代 第
一章 景教の伝来、東海黄金島ジパング、内外の情勢 の項に「『続日本紀』の聖武天皇紀に「天平8年秋七月庚午、入唐副使従五位上中臣朝臣名代等率景人三人波斯人一人拝朝」とある。
④『新・キリスト教辞典』比屋根安定編、昭和40年の誠信書房発行の128頁の[景教徒の日本来着]の項に、続日本紀が「聖武朝の天平八年(736)七月、入唐副使中臣名代が景人3人、波斯人1人を連れて帰国したこと、景人皇甫東、波斯人李密医が位を授けられた」と誤記し七月も誤記である。
①②③④は景人皇甫の誤記、③④は景人三人と誤記し、これ以降の参考著書に「多くの景教徒が
日本に来た」「光明皇后は景教徒」「聖武天皇も景教徒」との誤った表記に発展した。
⑤『日本精神史とキリスト教』関根文之助著、1962年の創元社発行の23頁に「景人皇甫東朝・・」とあり、「これがキリスト教が日本に伝来した文献に徴せられる初めと言いうるものである。」と断定した。
⑥『キリスト教大事典』昭和38年の教文館発行の景教の項目には「わが国にも聖武天皇時代に景教の僧が来朝した(736)。」と書かれている。
⑦『日本史のなかの佛教と景教』―冨山昌徳遺稿集―山下幸夫編者、昭和44(1969)年の冨山さと発行の46頁「唐人(景人)の来朝」とし、また51頁には『続日本紀』の「唐人皇甫」を「景人皇甫」と誤記している。
⑧『神道とイスラエル古代思想とキリスト道』淵江淳一著、1989年東京宗教研究所発行の159頁の「景教徒が来訪したのは・・天平八年(七三六)で、『続日本紀』の聖武天皇紀に、「天平八年秋七月・・景人三人波斯人一人拝朝」と記し、景教徒たちが来たと伝える。本書は②の「日本基督教史 全」比屋根安定著から引用している。
⑨『日本・ユダヤ封印の古代史2【仏教・景教篇】』久保有政+ケン・ジョセフ共著、2000年徳間書店発行の166頁に「・・・西暦七三六年六月、景教徒であり医者でもあった『李密翳』(李密医)というペルシャ人が、日本にやって来たと記録にあります。また彼と一緒に、『皇甫』という景教の教会の高位の人物と思われる人もやって来ました。」と断定されている。誤記の一つに「西暦七三六年六月」の記述原文には、景教や唐からの来朝に関しての記述はないからこれは誤りと言えよう。さらに聖武天皇と妃の光明皇后の景教徒説が展開されている。
⑩『【隠された】十字架の国・日本』ケン・ジョセフ シニア&ジュニア共著、2000年徳間書店発行の98頁以降に「景教徒はまた、日本にもやって来ました。記録によれば七三六年六月、景教の宣教師であり外科医でもあった『李密医』(李密翳)というペルシャ人が、日本にやって来ました。また彼と一緒に、『景人・皇甫』という景教の教会の高位の人物と思われる人たちなどもやって来ました(続日本紀 八世紀)。」とあり、皇甫を景人と記述され、年月も⑥と同一である。ちなみに⑥と⑦は同一の共著によるものと考える。
⑪『景教のたどった道』川口一彦著、2005年キリスト新聞社発行の125頁には736年の「七月に、景人三人と波斯(ペルシア)人の李密翳が来日したとあり」と誤記している。しかも七月も誤記である。
これらの他に、インターネット上でも一部の方々の誤表記が見られる。
一方、誤表記のない一部の著作を紹介しよう。
⑫『景教入門』神直道著、1981年教文館発行の200頁以降には、「・・・『唐人三人』『唐人皇甫東』を景人と解するなど、資料の恣意的な変更を平気で行なっている。」「これを承けて、堂々たる医学博士が、わが国医学の濫觴をここに求める論文を発表したり、一流キリスト教新聞の主筆が、前述の恣意的な改変資料をそっくり頂戴して景教徒がわが国へ入国した事情を論説している始末である。」
⑬『東アジアの古代文化 秋 特集 古代東西文化の交流』の「奈良時代に来日したペルシア人」石原力著、1978年(17号)大和書房の28頁以降に、前述の山本秀煌著『日本基督教史(上巻)』から影響し、それは佐伯好郎説に基づいていると述べている。
(これらを私に指摘して下さった方は「日本景教研究会」設立発起人の一人、ブラッドフォード・ハウディシェル氏です。感謝します。)
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3. 景教と福音の結実化について考察する(川口一彦) |
中国景教徒は840年代の武宗皇帝によって中国国外に追放され、会堂も破壊され、景教碑が埋められた。635年の公的宣教を開始して約200年後であった。プロテスタント宣教150年に比較すれば長い期間である。
さて宣教の真っただ中で起きる事件は、救いと迫害であろう。二つとも主の御手の中でのことであり、祝福でもある。神の救いの宣教者とは、命を捨ててまで十字架で贖罪死された主とその愛を知った体験者で、喜んで宣教に従事する者である。 |
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福音宣教の中で迫害がどうして起きるかは、十字架上で執り成しの祈りをされた大祭司イエスの「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)から理解できよう。反対者は御父と御子といのちの福音を知らないから迫害するのであって、主を知れば迫害者は宣教者へと変えられていく。
ところで唐代武宗皇帝の迫害理由は、仏教徒の横柄な態度と仏教が拡大するのを嫌ったもので(皇帝の宗教は道教)、外国の宗教であった仏教、ゾロアスター教、イスラム、マニ教への迫害追放が、景教もその対象となったのであり、景教が皇帝に対して迫害されるような悪を行ったものはない。
宣教で大切な要素は、①福音を宣べ伝えると反対者も起こって迫害や弾圧もあること、②福音奉仕者は自分のように人を愛し、忍耐し、主と主の救いに導く祭司的使命を土台に持っていることであろう。祭司的使命とは、自分も弱く、愛され、赦されたいとの思いを他者に持つことである。
中国景教消滅の要因の一つとして、景教は異教の帝国中国で土着化しなかったこと(しかし国外で信仰者が福音を継承していった)。過去の皇帝との良い関係が築かれていたにも関わらず、皇帝と時代が変わると敵にされたこと、これは世代交代の時のリーダーとどう関わるのかが課題である。
景教徒の宣教に従事し殉教した者たちは、派遣された教師のみではなく、一般の信徒商人であったことも判明していることから、すべての信徒が宣教者であるとの意識が大切であろう。
日本の教会の弱点の一つに偏った教職者(権威)主義がある。「信徒よりも先生」が偉く崇められるキリスト教世界は、儒教的階級社会が原因しているにもかかわらず、キリスト教会や教師たち自身が神の栄光のために糺そうとしない点にもあろう。教会が教師(牧師)中心でなく、いのちのことばに生きた弟子中心の教会作りが大切と考える。
教会の教会形成は、弟子たちによる教会形成であって、牧師が会堂の留守管理者であったり、礼拝の時に牧師が会堂で信徒を迎えるといったお客様関係はなくして、弟子たちが中心となった生きた活動が出来る教会作りについて、次回から考えたいと思っている。ご意見をお寄せて下さい。
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4. 古代東方宣教について |
主イエスの各使徒や弟子たちは全世界にイエスの福音を伝えて行った。特にトマスやタダイなどはペルシア、インドの東方に福音を伝えたとの言い伝えがある(トマス行伝ほか)。イスラエル人が人種や文化の異なる外国に行くだけでなく、迫害や殺害の危機に遭遇するであろう異教や異邦の地に行くなら、それなりの覚悟が必要となる。
彼らの直接の師であり主であるキリスト・イエスご自身も、「仕えるために来た」との覚悟で追放され、十字架につけられていった。それらを理解した彼らの聖霊の励ましによる宣教意欲に倣いたいと考え、次号からトマスたちの異邦・異教文化宣教を考察していきたいと考えている。いくつかの資料をお持ちの方はご紹介ください。ます。 |
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会計報告(2009年4月~5月分)
収入額 18,000円(6人分の会費)
支払額 5,520円(郵送料)
差引額 12,480円(6月1日現在)
会計責任者/川口 |
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