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季刊誌 会報 「創刊第弐号」2009,12,1

            ニュースレター№3 / 現会員数42名

 

事務局:〒486-0917 愛知県春日井市美濃町2-207-2(川口一彦氏宅) 
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E-Mail  hiko-630@xc4.so-net.ne.jp
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目次
①巻頭言 「祝クリスマス 景教のメシア降誕記事」  ニュース  
②韓国の第一回アジア景教歴史学術大会に参加して  
③韓国で発見された十字
④景教と私
⑤会計報告その他
⑥坂越の秦河勝の墓 訪問記
 

巻頭言 祝クリスマス

 

景教のメシア降誕記事

(上は景教碑、下はイエス・メシア経の各部分)  川口一彦(会代表)

私たちを愛し、私たちも愛する救い主、仲保者で弁護者、ΑでΩなるキリスト・イエス様を共に喜びます。今号は景教碑文と序聴迷詩所(イエス・メシア)経から降誕記事を取り上げました。
「私たちの三一(三位一体神)の分身(御子)、景教の尊い彌施訶(メシア)は真の姿を隠し、人として世に出られた。神天(天使)は慶びを宣言し、室女(マリア)は聖なるメシアを大秦(ユダヤ)で誕生させた。イエスの星(宿)は幸いを告げ、波斯(ペルシャ)からはその輝きを見て貢(贈り物)を持って来ました。24の旧約聖書(旧法)を成就し、家や国を御手に治めました。」(大秦景教流行中国碑<781年西安作>)
「マリア(末艶)は懐妊して後一男を産み、名をイエス(移鼠)とつけた。」(イエス・メシア経<636年敦煌作>)

 1、三位一体の用語。三一は景教碑文の中で漢字で最初に書かれました。三一の用語は100年代後期から200年代のギリシア教父やアレキサンドリア教父が使用し、古代教会で使われるようになりました。東方景教会も当然、神理解が三位一体であることが碑文で分かります。他の景教文書にも三一の表現があり、一例として「景教三威蒙度讃」で三位の父・子・聖霊(浄風)を賛美している歌です。シリア語から漢訳した賛美歌は、古代教会から受け継いだものでした。
分身は諸説ありますが、出自の意味で、子は父から出られたことを証した表現と考えます。
2、メシアは聖。これは天使ガブリエルがマリアに受胎告知の時(ルカ1:35)のイエスへの称号で(聖の称号はバプテスマのヨハネにはない)、イエスを神と崇める称号の聖を宣告されました。旧約聖書の一例として「われらの神、主は聖である」とあります(詩篇99:9)。
3、波斯(ペルシャ)からの来訪と献上品。これはマタイの福音書2章1節~12節の降誕の記事で、マタイでは東方の博士たちがどこから礼拝に来たかは書かれていません。なぜ景教碑の述者は波斯と断言できたのでしょうか。それは東方の博士たちが自国に帰って、メシアに会ったことを言い広め、それが伝承になったと考えます。
宝を貢としているのは、貢の字の工が献上、貝が高価な品の意味があり、最高の品を指しています。最高の献上品が西アジアと東アジアの中国で違うことから貢にしたと考えます。(黄金、乳香、没薬はメシアの贖罪に相応しい品であったことはよく語られることで、これは中国と西アジアにある贖罪観・救済観の有無かと考えます。つまり中国には聖書的贖罪観は存在しないからです)
4、24の旧約聖書。碑には旧約を旧法とあります。ユダヤ教の聖書の数は24で、例えばサムエル記や歴代のⅠⅡ、あるいは上下を一冊にして数えれば24になります。ローマ・カトリック教会は外典を入れて46冊、文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳の各聖書は39冊。
碑には新約聖書は27とあり、唐の時代に中国にまで旧約・新約聖書が入っていたと考えられます。
 景教徒たちはアラム語・シリア語の旧新約聖書や神学書を持って中国に入り、敦煌や西安で漢訳して普及したと考えられます。  

 

【ニュース】

10月19日~23日の両日、韓国の李敬云牧師(『景教』著者、社団法人韓国景教歴史研究院会長)主催によるソウルの「第一回アジア景教研究国際学術大会」が開催され、会員諸氏(川口一彦、湯沢英房、片桐進、ブラッドフォード(夫人の俊江)、森和亮、三浦茂、川口真)が参加しました。
この大会で出された一冊の書籍「景教指南」には多くの景教遺跡資料が掲載されていますので、日本語に翻訳された後に、希望者に頒布(有料)したいと考えています。

 

2. 第一回世界景教歴史学術大会(韓国)に参加しての感想と展望

A、 (運営委員、東向日キリスト教会牧師 京都在住)
1. 点が線となった。
これまで中国(西安、北京、内モンゴル)の景教遺跡を訪ね、古くシルクロードを経て日本に伝えられたことを学んできた。しかし大陸から伝来するなら、朝鮮半島を経由したと推定される。今回、韓国で開かれた景教研究セミナーで確かに朝鮮半島を通過したことがより明確になり、中国―韓国―日本と結ばれる線となった。以下、セミナーで学んだこと。
イ. シルクロードの三大重要ルートを通して伝えられた。
敦煌から西安に至るシルクロードのみが注目されるが、実は三大ルートがあった。
1. 船による海上交流ルート(Marine Route)
2. 駱駝による中央アジアの砂漠ルート(Silk Road)
3. 馬による草原ルート(Steppe Road)
これらのルートは旧約のソロモン王の時代から交易に使われたと考えられる。絹ばかりでなく桑の栽培、蚕の養育、金属、宝石などの交易の他、文化、芸術、学問、宗教も伝えられたであろう。
ロ. 離散の民(ディアスポラ)を通して伝えられた。
古く旧約時代から上記のルートを辿って人々の移動があったと考えられる。
旧約時代、イスラエル民族はアッシリアとバビロンにより捕囚時代を過ごす。やがて前538年にクロス王のより帰還を許されるが、残った人々もあり、世界に離散することになる。
また、新約時代、後66年ローマ帝国の弾圧によりエルサレムを脱出したユダヤ人たちが世界に離散したと考えられる。(使徒8:1、Ⅰペテロ1:1など)
「散らされた人々は、みことばを宣べながら、巡り歩いた」使徒8:4と書かれている。
ハ.使徒トマスによって伝えられた
イエス・キリストの大宣教命令を受けて、使徒たちは世界宣教に派遣された。トマスは後52年にインド地方の宣教に出かけた。インドの南西部のケララ州や東南部ミラポールで伝道し、その地の王から庶民まで救いに導いた。現在でも7つの東方基督教会が残っている。トマスは後72年にミラポールで殉教したが、その地は「トマスの丘」と呼ばれている。
トマスによるインド宣教について、今回の講師、鄭学鳳先生から興味深い研究報告と日本語の著書「使徒トマスの物語」の紹介があった。やがてトマスの伝えたキリスト教がマレーやシンガポールに伝えられ、朝鮮半島にも届いたと話された。
2. 今後の目標
イ.朝鮮半島まで確かな足跡が見られたので、今後は奈良など古い都を訪ね、日本におけるこん跡を調べたい。また、トマスのインド宣教の地を訪れる機会を作り、鄭先生に案内していただければ感謝である。
ロ.韓国や中国に景教研究者が沢山おられることを知り励まされた。日本に於いてもぜひ、多くの方々に関心を持っていただければと願っている。
ハ.今回、貴重な論文が出されたが、韓国語、中国語なので、読むことができない。現在、理事をされている李敬云先生の論文を日本語に翻訳するよう頼んでいるので、出来上がったなら会員の方々にお配りしたいと考えている。

B、第一回アジア景教歴史学術大会の恵み 片桐進(運営委員、秋田放送「希望の光」ラジオ牧師)
主の御名を賛美申し上げます。この度、主の不思議な導きによりまして第一回「景教セミナー」に参加させていただきました。宣教学的には21世紀はアジアの時代とも言われています。
日中韓よりの講師たちが、アジアにおけるベールに包まれた面もある宣教の歴史などの講義をして下さり、深く感銘を受けると共に、いよいよアジア宣教の扉が開かれつつあるのを実感しました。
これからは、旧約聖書に根ざした新約聖書の大切さと、かつてなされたアジア宣教の足跡を謙虚に学びつつ、「東アジア福音共同体」のビジョンをお互いに、主の導きを求めていくことが大切ではないでしょうか?
 いろいろご配慮くださいました川口先生、またご一行のみなさんに感謝します。小生は、日本の中でもアジアに面している日本海側の秋田県ですが、鳥海山その向こうの大陸に思いを持ちつつ、主の恵みに感謝します。

C、景教セミナーに参加して 三浦 茂(会員、愛知福音キリスト教会代表 愛知県在住)
このたび、第一回景教歴史セミナーに参加するため、日本からの招待講師、川口牧師と共に韓国を訪れる機会を得ました。仁川空港に到着し大変な歓迎をしていただきました。空港からソウルまでの夜景では、大小様々な教会堂の赤い十字架のネオンが絶え間なく目に入り、韓国の実情を見ることが出来ました。
セミナーでは日中韓の講師がそれぞれの立場で研究発表され、興味深く拝聴しました。また景教としての中国へのルートとその他、使徒トマスによるインドから東南アジア⇒日本というルートがあるかも知れないという事も知りました。余りにも年代が古く、それぞれの地域の風習に埋没してしまっていますが、やがて資料、遺跡が発見され解明されたら、まさにイエス様の御言葉「地の果てにまで、わたしの証人となります」の実現であり、弟子たちが全世界に散って行った証となります。そしてキリスト教が世界の全ての人々の宗教であり、キリストは全ての人々の救い主である事が確実なものとなります。
セミナーの後、観光地、史跡を案内していただきました。私にとって全て目新しいものでした。その間、同行者との交わりもあり、楽しい5日間の旅でした。

 

3. 韓国で発見された十字(左は釣鐘と釣鐘の十字、右の二つは十字を持った人物像)

 

4. 景教と私                塩島八重子(会員、東京都在住) 塩島八重子(会員、東京都在住)

景教ということばを耳にしたのは遠い記憶の底で、子供の頃でした。江戸絵師だった父は、全国の神社や寺の衾や掛け軸の絵を描いたり、御神体と呼ばれる木彫像の修理等の職種でしたので、各宗教について多少知識を持っていた様です。話し上手の父は私にとって未知の世界の探検物語の源でした。
「昔々支那(中国)に遠い外国から耶蘇教(キリスト教)のお経本を運んだ人達がいてね、中国の天皇様のお許しと仏様のご加護で、とっても流行し世の中の地獄が、少なくなったんだって。それを聞いた日本の天皇様は偉い学者さんや坊さまを遣唐使として送り、耶蘇のお経本を持ち帰らせて、日本のお経本の中に取り入れさせたそうな。景教物語、第一巻終わり」。こんな風でした。
1988年に全日本手工芸作家使節団として、日中国際交流の集いに参加した時、念願の中国西安の景教碑と出会いました。帰国後、景教の事を知りたいと思い佐伯好郎先生の「景教の研究」という本があると解り、捜し廻りましたが入手できず、諦めかけていました。その頃自宅で毎週聖書研究会が開かれていました。会員はアジアからの留学生が多かったのですが、中国の留学生の一人が、新聞の切り抜きを紹介しました。それが「シルクロードを東に向かったキリスト教 景教」(川口一彦編著)の2000年発行案内の記事でした。早速手に入れ、それからは聖書研究会というより景教討論会のようになったりしました。が、夫婦二人の老々介護が始まり、長い間景教の研究はとだえました。
このたび主の導きにより、専門的な日本景教研究会の末席に参加させて頂き、貴重な景教調査・研究などのご提供を受ける幸いを、まことにありがとうございます。
春日井の地に一日も早く「日本景教資料館」が設立されることを祈念し、古代の中央アジアや唐の時代の中国に三位一体の神の働きがなされていたことを皆に知って頂き、神に栄光があります様に祈ります。

 

「景教」会報誌を活用して下さい
景教に関する論文や遺跡の発表の場として本誌を設けましたので、ご活用下さい。また「景教と私」とのテーマで景教から学んだことその他を寄稿して下さる方がいらっしゃいますならふるって投稿して下さい。
報告
◆川口一彦代表が9月7日-13日の第23回東海聖句書道展(名古屋市民ギャラリー)に景教碑の拓本を展示→

◆12月1日付の中日新聞(東京新聞)に、景教研究会設立の記事が掲載↓



 

5. 坂越の秦河勝の墓 訪問記杉山 元夫(会員、千葉県在住)

私が坂越をはじめて訪問したのは、2004年8月。千種川(写真①)を眺めてトンネルをくぐると、坂越の美しい街並みが広がる。江戸時代の町並みを再現している(写真②)。そこを抜けると、海が広がり、坂越港である。江戸時代赤穂の塩を運搬する港として栄え、「坂越浦会所」などその跡が忠実に復元されて、観光地化されている。私が目指す秦河勝の墓は1㎞くらい離れた沖合に浮かぶ生島(いきじま)にある。何とか渡る方法はないかと、そこに住む人に聞いたが、生島に繁茂した原生林を保護するために、渡ることができないという返事だった。生島を正面から見守るかたちで建っているのが大避神社である(写真③④)。秦河勝が建設したという伝承のもと秦河勝を祭神としている。事実河勝の記念する行事が残っている。
大避神社は生島を高所から眺める位置に建設され、神社境内の拝殿にある井戸は「イスラエルの井戸」と呼ばれ、驚くべきことに、海岸近くなのに地上からくみ上げる水は真水である。隣の播州赤穂では真水がとれず、海水を真水に変える治水施設が必要とされたのと対照的である。「イスラエルの井戸」と名づけられたのは秦河勝の偉業を記念しており、彼をユダヤ人として見なしていることもうかがえる。



私はそこで坂越小学校6年生の女子と出会い、「秦河勝を知っている」と言われた。学校では秦河勝が坂越を作った人物として教えられていることがわかった。その母親と話す機会があり、年に1回7月上旬小学校では生島まで泳いでいく海上訓練が行われていることがわかった。この情報から、秦河勝が学校の教育プログラムとして実践されていることがわかったし、生島が決して人が入ってはならない禁忌に島ではないことに希望を見出した。それで、彼女たちにそういうチャンスがあったら、連絡してほしいと、連絡先を教えておいた。このことが、翌年生島に渡ることができる機会となる。

大避神社の宮司生浪島(いなみしま)氏は留守で会うことができなかったが、この日彼女たちの紹介で、坂越小学校の元校長若林繁之氏(当時78歳)と会うことができ、取材ができた。やはり、坂越の村おこしに秦河勝を子供たちに教えることに意欲を燃やし、実践していることがわかった。もちろん、彼が語る秦河勝は実在の歴史上の人物で、神話・伝説の人物ではない。そういう情熱をこめて若林氏は住民の意思と国の仲介となり、10年間にわたり国に50億円支出させて坂越の町をつくったと言われた。
さて、赤穂歴史研究会坂越支部が1983年4月に発行した『ふるさとの歴史』(NO5)には、坂越と大避神社について興味深いことがいくつか報告されている。
まず、赤穂西中学校校長司波幸作氏の「坂越の碑とその特徴」によると、「千種川流域には大避神社、または大酒神社と称する社が二十数社にわたって存在する。坂越を起点として作用郡にまで至るが、その大部分は旧赤穂郡であることから見て、秦氏とのかかわりの深さがうかがえる。
二十数社は、それぞれ産土神として古くから地域住民の尊崇を受け、その神域にはその地にゆかりのある数多くの碑を見ることができる」とある。 ここで「大避神社」は「大酒神社」と同じ秦氏の神社であることがわかり、二十数社散らばっている神社は坂越が起点となっていると指摘されているところから、坂越の秦河勝がその起源となっていることがわかる。そして、その神社が産土神として崇拝されているところから、産業を中心に日本古代文化に貢献したと記されている『日本書紀』の記述を裏付けるものとなる。
さらに油谷町久津(くず)のように、坂越浦の漁民が江戸時代に移住した記録を残しているが、いずれも坂越から勧請した秦河勝を祀る大避神社が建てられている事実を見ても、秦氏の連綿とした影響力の強さを印象づけられる。しかも彼らに一向宗が多いというのも注目させられる。そこで引用された久津公民館史料には、「(久津)大避神社は、欽明天皇の御代に奉仕せる樂人」と記している。そして、欽明天皇が秦という姓をあたえ、秦氏を用いたいきさつが神話的に述べられている。そして、「その後、河勝故あり、播磨国坂越浦に住みたまいし時、疱瘡を病みたもうこと甚だしく、後世この病に罹る者は安癒せしめんと誓い、卒去したまいしを、坂越の土人等大避神社として鎮祭せり」と記している。「故あり」とは、聖徳太子死後の蘇我氏との政治的争いである。坂越で不治の病にかかり、そこで没して大避神社が建てられると証言されている。

坂越からの移住は愛媛県長浜町青島にも達し、そこで建てられた青島神社の祭神が秦河勝であることも記録されている。
翌2004年初夏、知り合いになった主婦から連絡があり、年に一回小中学生が生島を大掃除する行事あり、それが7月10日(日)に行われることがわかった。坂越に7時に着いて海岸に行くと、生島を前にして小中学生、父母、教師がざっと200人くらい集まっていた。坂越の町全体をあげての行事であることがわかり、大避神社の宮司が中心になっていることがわかった。  

神社が秦河勝と生島の行事に深くかかわっていることが目に見るようにわかった。ただ、私が宮司に取材を求めると、すげない態度をされた。宮司から取材をするのは無理であると判断せざるをえなかった。
さて、掃除班は3隻の漁船に分乗して生島に渡った。私もその中に交じって生島に渡った。目指す秦河勝の墓は岸辺から小高い丘にのぼるとすぐ見つかった(写真5)。入口は新しい石材で「秦河勝公御墳墓地」「縣社大避神社祭神」と表示されていて、秦河勝が大避神社の祭神であることが強く意識されている。しんにゅうのはいった「避」が用いられている。円墳または方墳のような形をしており、草木が生い茂っているものの、その量は近畿の大型古墳に比べれば、少ない。
その後、この行事の推進者のひとりである赤穂市役所の職員宮崎氏に市役所まで連れて行っていただき、秦氏に関する資料をいただくことができた。その中で千種川流域に大さけ神社が35も分布していることがわかった。秦氏は坂越だけでなく、赤穂にも広がっていることがわかった。翌日から赤穂に秦氏の痕跡があるのかを特に江戸時代の赤穂城を中心に探ってみたが、忠臣蔵すなわち赤穂事件のみが大きく宣伝されて、秦氏の面影を見つけることができなかった。あの日本史上稀有な事件である赤穂事件が秦氏の末裔によって繰り広げられたのではないかというのは、単なる妄想だろうか。  
次に生島に行ったのは、昨年2008年3月20日である。生島の原生林が植物学の研究対象として貴重な存在であることがわかっていたが、「世界の照葉樹林、生島の照葉樹林」と題した講演があり、その後生島に渡って見学があるという通知を受けたからである。旧坂越浦会所を会場として、兵庫県立大学の服部保教授が講演した。
40人ばかりの地元の老若男女が集まっていた。その中に5人の中学生たちがまじっていたので、町全体とその教育機関が町の伝承の保存とともに、その継承にも力をいれているという感をもった。
講演は環境学を視点にすえたもので、私が関心をもっている秦河勝についての内容はなかった。照葉樹林は縄文時代からのもので、秦河勝とは関係ないとしているが、河勝が葬られた生島の原生林が、縄文時代を起源とする照葉樹林帯であるなら、人の入りにくい生島に町づくりの恩人を葬り、その後も人々の出入りを禁じて、さらに照葉樹林が繁茂して現在にいたったことは十分考えられる。生島の照葉樹林と秦河勝は関係していると私は感じた。住民の出入りの禁止による秦河勝への尊崇と照葉樹林の原生林化が、秦河勝の小さな墳墓を今日まで破壊・盗掘から守ったと考えられ、それゆえ生島の墳墓が秦河勝を埋葬したものであると断定してよいと私は判断した。  
講演が終わって、漁船に分乗して生島に渡った(写真6、7)。服部教授の照葉樹林の説明は植物学の視点では興味あふれるもので、住民たちは熱心に耳を傾けていた。私が島に来たのは二回目だが、暇を見つけては河勝の墳墓に行っては観察した。近畿の大型古墳にくらべてひっそりとして、盗掘にもあっていないようだし、考古学の発掘の対象にもなっていない。その点天皇陵古墳のように地元の尊敬が
この墳墓を守っていたと考えざるをえない。河勝が死んだ1300年前のものにちがいないと思う。
したがって秦河勝は実在の人物であり、『日本書紀』に記された河勝の業績は大体事実と見ることができる。すなわち、秦河勝は聖徳太子の側近として広隆寺を建て、そこに彼の宗教性を表現した。しかし太子の死後蘇我氏が権力を握るに及んで政界から身を引いて坂越に逃れ、この町作りに貢献して息をひきとったという史実が確認できると私は判断する。  

写真説明
①赤穂と坂越を結ぶ千種川。この流域に大避神社が20~30存在する。(写真は2008年3月20日現在 
②坂越の町並み。10年間で50億円の国の援助を受けて江戸時代の坂越港が再現され、現在観光地化されている。
③坂越の精神的支柱大避神社への参道。まっすぐ行って50mほど上がった所に神社がある。
④大避神社本堂。秦河勝が建立と伝えられ、河勝を祭神とする。2008年3月20日のイベントの環境学講座の旗が掲げられている。
⑤生島にある秦河勝の墳墓。方墳と言われているが、円墳に見える。
⑥坂越港から漁船に分乗して、生島に渡ろうとしている。
⑦漁船から眺めた生島。照葉樹林の原生林に覆われている。
 
◆全国の聖書の言葉やキリスト教関係の石碑を探しています。拓本をして世に広めたく願っています。ご一報下さい。私(川口)がこれまで拓本した一部を紹介しました。

左は南無阿弥仏で、仏が絶えるとのキリシタンたちの願いの一説もありますが、有力な説として、絶はゼス、イエスで、イエスの佛に南無(信ずる)するとした隠れキリシタンの祈りだったとも言われています。
中央は一般の石像の中に際立って目立つ逆卍の十字、右の十字の右側には三本の十字が立てられています(この右の石は中山道みたけ館所蔵です)。
この地にも隠れキリシタンたちが数多く存在し、殉教した信徒たちが多くいました。
これらの石碑は岐阜県御嵩町の山奥で発見されたキリシタンたちのもので、2009年10月と11月に川口が現地に出向いて拓本し、会員に紹介させていただきました。
全国に立つキリスト教関係の石碑をご紹介ください。

 
 

 


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