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季刊誌 会報 「創刊第弐号」2010,3,1

            ニュースレター№4 / 現会員数45名

 

事務局:〒486-0917 愛知県春日井市美濃町2-207-2(川口一彦氏宅) 
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目次
①巻頭言「景教徒の中にビジネスマン伝道者で殉教者が多くいた」  
②第一回世界景教歴史学術大会(韓国)に参加して 
③景教との出会い
④秦氏関係の書籍紹介と書評
⑤景教とシリア語訳聖書
⑥空海(弘法大師)は景教と関係があったのだろ
⑦報告、会計報告その他
 

巻頭言

 

景教徒の中にビジネスマン伝道者で殉教者が多くいた

(代表、川口一彦)

北京で発見された10世紀頃の景教徒によるシリア語祈祷書には、殉教者の記事があり、その一文に殉教した者は景教徒商人・ビジネスマンであったことが記されています。もともと景教徒による伝道は多くビジネスマンたちによるものでした。
その記事のシリア語訳文を佐伯好郎著「景教の研究」から抜粋し、現代訳して川口が紹介しました。
「私たちはあなた(三一の神)を賛美します。義しき直ぐな殉教者たち。あなたがたは以前からビジネスに従事してきた。見よ、あなたがたの財産は天に蓄えられている。あなたがたはあなたがたの首の血潮をもって宝玉を得た。
義しき者、主にあって喜べ。賛美は直ぐな者にふさわしい。殉教者た
、あなたがたはビジネスに従事してきた。あなたがたは海や河を渡り、山や野を越えて諸国を遍歴し、ついにあなたがたの血が流されてこの世を去った。あなたがたは祈りつつ、神の御子イエス・メシアを四方の国民に宣べ伝えた。
あなたがた殉教者たち、高きところの天のエルサレムに着き、あなたがたが首から流した血潮によって、私たちが望む天国を勝ち得た。」


景教徒たちはペルシアから福音を携え、シルクロード(陸路)、シーロード(海路)を使って、艱難辛苦をも乗り越え、唐代中国へ福音宣教に従事しました。そして多くの人を救い天に導きました。
ところが845年の武宗皇帝の時代、迫害と国外追放の憂き目にあい、多くの景教徒の指導者や信徒たちが殉教。この殉教者たちを覚えた祈祷書には、景教徒がビジネスマンであったことを伝えています。当時、指導者たちも農業や家畜の飼育をしながら伝道し、商売をしながら宣教したと伝えています。
当時の彼らは、生活が保証されていた西方教会の指導者たちとは違い、イスラムが支配的になった本国のペルシアには帰れず、自分自身の全生活をかけて宣教に従事するためには、テントメーカー(自給自足の開拓伝道者。例えば異邦人宣教の使徒パウロのように)として生きることでした。信頼するのはお金でなく神様であり、神様からの恵みと守りと導きでした。
このシリア語祈祷書には、殉教者の姿勢が伺えます。それは殉教を特別に讃嘆するのでなく、実際になされた殉死を伝え、神を賛美しています。つまり「栄光はあなた(神)にあることを祈ります。われらの主よ、栄光は主イエスにあることを祈ります。それは私たちがあなたのみを信じ、あなたのみを避け所とするからです。」
大変な迫害と困難の中で、彼らは「ステパノの殺害されたことを思い起こすごとに、賞賛と感慨とは私に迫っています。ステパノの忍耐は私に感動を与えました。」と初代の主の弟子たちの生き様から信仰を学び、神様に信頼していきました。
景教徒ビジネスマンの目標はお金を稼ぐことではなく、ビジネスを通して人を救い、いざという時は、迫害者や殺害者に対して、主イエスのようにその人を赦し、神の栄光を讃えて殉教を覚悟して生きていったこと。絶えず神を賛美し、信仰の目標である天の御国を慕って生きたと思います。
日本はビジネス大国ですので、ビジネスマンによって人の心に愛をもって福音を植えていくことが急務です。私は日本人のビジネス・クリスチャンが宣教のため、救いの喜びを共有するため、神の栄光のために用いられるよう願っています。

 

2. 第一回世界景教歴史学術大会(韓国)に参加して

森 和亮(会員、神奈川)

昨年2009年10月20日~23日、韓国ソウルで上記の名称での会議が開かれ、私も日本からの参加者の一人として出席してきました。ちょっと時期遅れではありますが、一言感想を述べる形でご報告させていただきます。
景教の歴史への関心と研究は、近年になってようやく高まりを見せて来たというのが、実状であると言えるようです。私自身が今世紀に入ってにわかにこのテーマに目覚めるようになったばかりですが、すぐ気がついたのは、この景教による宣教の歴史という視点は日本では決して大きく開かれていない、ということでした。このテーマで私が周りの人たちに語り始めても、あまり反応がないのです。しかし、私自身は景教とその宣教の歴史によって大いに心揺さぶられ、励ましと希望を与えられたことは事実です。そして反響の度合いがどうであれ、つまり、それがどんなに鈍いものでしかなくても、かえってますます、このことを周りに告げ知らせていきたいという願いが、一種の使命感のように燃え上がっているのも事実です。
さて、そんな私がタイミングよくこのような企画があることを知り、早速喜んで参加してみての感想は、次のようなものです。
①このテーマへの関心と研究は韓国が一番盛んである、ということ。だからこそ初めてこのような会議が韓国で開かれ得たわけですし、参加者の大半は韓国教会の方々であったこともそれを物語っています。日本からの参加はやっと十名ほどでしたし、中国からはわずか四名が参加しただけでした。それにしても、この会議を準備し、主宰して下さった韓国の方々の親切なおもてなしとお骨折りには、尽きない感謝の思いが残りました。
②このテーマへの関心が広がっていないにもかかわらず、関心をもって取り組んでいる人たちには共通して熱い思いが見られる、ということ。私にとって最も大きな励ましは、鄭学鳳牧師との出会いであり、その長年にわたる研究からの見事な講義を直接お聞きできたことでした。少数でもこういう熱心な研究を続けて来られた方の存在こそが、大きなチャレンジと励ましを周囲に与えて来たのだと、知りました。鄭教授の著書や論文も少なくなく、会議でも私たちのために日本語を交えて語られたり、通訳の労をも惜しみなくとってくださいました。
③このテーマに取り組むには、イマジネーションを働かせる必要がある、ということ。鄭先生の大好きな使徒トマスも、ご存じのように、最初は「実証主義者」のような出発でしたが、ひとたび復活の主イエスとの出会いを経てからは「福音を地の果てまで」と東方への宣教に生涯を捧げました。この流れに「景教」があります。景教の宣教の歴史的な資料は決して多くはありませんが、シルクロードなどのルートを経て、従来の宣教の歴史の先入観をはるかに超えて古い時代に、福音は東へあるいは日本へまで届いていたのではないか、ということ。この点で私たちは大胆にイマジネーションを働かせてこそ、トマスたちの宣教の情熱を再発見し、古代の信仰の先輩や宣教者たちの足跡からの励ましを受けとめることが出来ると信じます。(巡回伝道者・前横浜山手キリスト教会牧師)

 

3. 景教との出会い

田中 一久 (会員、三重県)


私は三重県の鈴鹿市で生まれ育ち、35年前、高校生の時にクリスチャンとなりました。家の前には「伊勢参宮道」と言い、昔の東海道の四日市から分かれて伊勢神宮へ向かう街道が通っています。三重県人にとっては伊勢神宮はとても大きな存在で、私も小さい時から何度も伊勢神宮に行きました。その時にはあまり気になりませんでしたが、クリスチャンになってから伊勢に行くと、伊勢神宮の外宮と内宮の間には道の両側に700本もの石灯籠が立っており、そのすべてに天皇家の菊の紋と共に、イスラエルの国旗にある「ダビデの星」が付いていることに気づき、とても不思議に思っていました。なぜ日本人の心の故郷と言われ、天皇家ゆかりの伊勢神宮にこのような「ユダヤ」を象徴するしるしがあるのか。何か私たちが知らない歴史の真実があるのではと、ずっと思っていました。日本はユーラシア大陸の東端に位置し、古来から大陸の進んだ技術や文化が流入し、文化交流の終着点でした。稲作技術、鉄器、蚕産、

機織り技術等はすべて大陸から伝えられ、正倉院の宝物を見れば古代オリエント文化の影響も見ることが出来ます。そしてそれらがどの様な人々によって伝えられ、日本の文化や歴史にかかわって来たのかに興味を持ち、自分なりに東西交流について調べるようになりました。
86年から三重県と中国の河南省との友好交流が始まり、私は95年に農業の研究交流のために3ヶ月中国へ派遣されました。河南省は中国の黄河の中流域で「中原の地」と言われ、殷代の都をはじめ、三国志の舞台や歴代王朝の都となった洛陽、開封等がある大変歴史のある地域です。

そして開封を訪れた時、相国寺に弘法大師の足跡をみたほか、開封は中国で最も古く、有名なユダヤ人街が有ることを知りました。帰国後、シルクロード貿易にはユダヤ人が深く関わっていたことや、7世紀には景教が西安に伝わり当時の人々や日本からの留学生に大きな影響を与えていたこと、またユダヤ系景教徒の日本への渡来や秦一族の日本における影響等を知り、景教への関心が深まりました。ちょうどその頃、新聞で川口先生が景教碑の翻訳本を出版されたことを知り、早速記念講演会に出席し、景教碑の内容や当時の交流の様子などを教えていただきました。その後、実際に京都の太秦の大避神社や広隆寺、長野県諏訪神社の御頭祭、兵庫県赤穂の大避神社等を訪ねて、更に景教の事や秦一族の影響等について知ることが出来ました。
また、07年には再び河南省を訪れ、開封のユダヤ系中国人のお宅を訪問する機会がありました。この家では今もユダヤ人特有の燭台(メノラ)が置かれ、壁にはユダヤ人の会堂の写真や切り絵がはられています。まさに東西交流の生き証人にお会いすることが出来た思いがします。これらによって、東西交流を通じてシルクロードや中国の古い街では、かなり古い時代からユダヤ系の人々が住んでいたことが良く解りました。今後は更に、その大陸から日本への影響について調べていきたいと思っています。

 

4. 秦氏関係の書籍紹介と書評

二つの書籍について、すでに手に取られた方もあるかと思いますが、初めて見られる方のために紹介いたしました。(代表・川口)

法然と秦氏/山田繁夫著
2009年12月/(株) 学研パブリッシング発行
空海も秦氏の家系で生まれた。法然も母方が秦氏。43歳で比叡山の修行から解放された法然は浄土宗を創立。女人や悪人往生を説いた。教えの背景は源信の「往生要集」や善導にあった。当時の日本は大変な人間差別が強く、特に大陸からの帰化人・秦氏の末裔が差別されていた。それを知った法然は、女人や悪人や差別にあった同族の救いに至る。「・・深い絶望と苦しみを経験したうえ、同じ信仰や生活習慣、同族意識や帰属意識を共有する同族の民が没落し、差別されていった趨勢を目の当たりにしなければならない時代に生きたからこそ、法然にとって必要な仏教・・」(p241)との視点で書かれた。
  うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝/梅原猛著
平成20年12月/(株)角川学芸出版発行
本書は秦河勝の事跡の大避神社、能楽を取り上げる。秦氏と平安京-薬師信仰とキリスト教の項で、「日本書紀」に出る、聖徳太子とキリストの復活を重ね合わせて描写。秦河勝が隠れ景教徒だったら「もしキリスト教の伝来がすでに河勝の時に行われていたとしたならば、日本の宗教史は根本的に書き直されねばならないであろう。」(p84)と云う。そして著者の思いが「・・今は当時よりももっとはっきりと秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、聖徳太子もそれに影響されたのではないかと思っている。」(p223)とまで云う。
 

5. 景教とシリア語訳聖書

浜島 敏 (会員、香川県)

景教が、シリア教会の流れを汲んでいることは良く知られている事実ではあるが、実際にシリア語の聖書がどのようなものであるかは、あまり知られていない。シリア教会も複雑な歴史の流れの中で、分派と統一を重ねてきており、単純には説明できないが、シリア語を用いているということで共通である。
シリア語は、言語の系統からいうと、アフロ・アジア語族の中のヘブライ語と同じセム語派の中の北西セム語に属している言語の一つである。北西セム語はさらに、カナン諸語とアラム諸語に別れており、この古期アラム語は中東地域一帯において共通語(リングア・フランカ)として話されていた。
旧約聖書の一部(ダニエル書等)はこの古代アラム語で書かれた。BC300年以後、中期西部諸方言の一つがパレスチナ・アラム語であり、中期東部諸方言の一つが古シリア語である。したがって、シリア語は1世紀のパレスチナ地方で話されていたパレスチナ・アラム語(=イエスの日常語)と原則的に同じものであり、おそらく当時は、通訳する必要もなくお互いに理解できたものと思われる。事実、「シリア語」と「アラム語」は同義語として使われることもある①。それは現在のスペイン語とポルトガル語、スウェーデン語とノルウェー語、インドネシア語とマレーシア語などと同じ関係であると言って良い。もっと身近に譬えれば、大阪方言と東京方言のようなものであり、時々は理解できなくなり、場合によっては誤解を生むこともあったとしても、おおよそは理解できる言語であった。すなわち、イエスの日常使っていた言語とシリア語とは姉妹語であり、共通点が多いばかりか、両者は一種の方言関係であると言うことが出来る。
これらの言語がどれほど近かったかを次に挙げてみよう。創世記の冒頭は、ヘブライ語では「ベレーシート、バーラー、エローヒーム、エト、ハッシャーマーイム、ワエト、ハーアーレツ」であるが、シリア語では「ビラシート、バラー、エルハー、イット、シャミア、ワイット、アレアー」である。その共通点は明白である。
マタイ27:46(マルコ15:34)には、イエスの十字架上の言葉を「エリ、エリ(マルコでは「エロイ、エロイ」)、レマ、サバクタニ」(より正確なギリシャ語の音価はエーリ、エーリ(マルコは「エローイ、エローイ」)、レマ、サバクタニ」)とギリシャ語で音表記している②。もちろん、これは英語を日本語で表記するようなものであり、不完全なものであるが、同じ言葉をシリア語では「エール、エール、レマーナー、シャワクタニー」と表記できる。これらの言語がかなり近い関係にあることが分かるであろう。
初代キリスト教の中心は、エルサレムから次第に各地に広がって行くが、キリストを信じるものが始めてクリスチャンと呼ばれ、また世界伝道者パウロを送り出した教会のあったシリアのアンティオキアのような大都市においては、ギリシャ語がかなり用いられていたが、さらに北のエデッサ(現在のトルコのウルファ)では、シリア語(アラム語)が日常用いられていた。エデッサは、世界最初のキリスト教国とも言われ、エデッサ王自身、イエスの存命中に回心し、最初にキリスト教徒となった王であるという伝説すらある。エウセビウスは、使徒トマスがイエスの70人の弟子の一人タッダイオスをエデッサに派遣したことから始まると言っている③。
キリスト教はパウロたちの宣教によって西に広がって行くにつれ、ギリシャ語とラテン語を中心としてその歴史を記して行くことになるが、その後もシリア語はキリスト教の一つの重要な言葉となって、シリアを中心にむしろ東に広がって行く。やがてその地方では、シリア教がキリスト教と同義になり、紆余曲折を経ながら現在のシリア教会に繋がっている。また、7世紀以後イスラム勢力に席巻されたこの地域では日 用語はアラビア語に取って代わられることになるが(アラビア語もセム語派の一つである)、今もキリスト教徒(シリア教会)たちの間で礼典用として用いられている。また方言としてトルコやイラク、そしてシリアの一部で今も用いられているということである。景教はこの流れを汲むキリスト教である。面白いのは、インド最古の教会と言われるケララ州の聖トマス教会は、古い伝統を持ち、言い伝えによれば、西暦52年に十二使徒の一人トマスが直接伝道をしたとされている。今も典礼用にシリア語が用いられ、それがマラヤーラム語に翻訳されているということである。使徒トマスのことは別としても、かなり古い教会が存在していたことは確かであるし、その特徴が今もシリア語を礼拝に用いていることであるという。シルクロードのもう一つの南ルートを辿ったキリスト教であろうか。使徒トマスが直接伝道したかとか、「達磨」が「トマス」であるというような伝説は別にしても、景教の一つの流れとして、いつか「景教の源流を探る旅」としてインド旅行を計画されることを期待している。
新約聖書の書かれたギリシャ語はシリア語とは全く異なった言語であり(ギリシャ語はインド・ヨーロッパ語族の一つ)、アラム語(シリア語)とギリシャ語の関係は譬えれば日本語と英語の関係に似ている。新約聖書は、譬えてみると日本の歴史を英語で書いて残したようなものである。ギリシャ語が聖書の言葉として選ばれたのは、キリスト教が世界的な宗教となるための特別な神の采配による摂理があったと考えられるが、ギリシャ語の中に潜んでいるヘブライ思想を知ることは、聖書理解の上で大変重要なことである。その点で、シリア語はより古いヘブライ思想をより正確に伝えている部分があっても不思議ではない。いずれにしても、言葉だけで考えると、ギリシャ語よりもシリア語の聖書の方に、イエスが語った元の言葉のニュアンスが残っている可能性は十分ある。イエスは、「富者が天国に入るのは、『ラクダが針の穴を通る』よりも難しい」(マタイ19:24他)と難しい事柄の比喩として使っている。「ラクダが針の穴を通る」というのは、聖書から出た聖句として今では一般に受け入れられているが、考えてみると、イエスの譬えとしては、多少不自然さを感じるのではなかろうか。それで、この「針の穴」というのは、城門の潜り戸のことを言っているのである、という解釈を読んだことがあるが、これも何か苦し紛れの説明のような気がする。ところが、シリア語では、「『ロープを針の穴に通す』より難しい」と書かれている。ここで使われている「ガムラ」という言葉は、「ラクダ」の意味の他に「舟を繋ぐために用いる太い綱」という意味が古シリア語にあることが発見され、それに従って翻訳しているためである。イエスが漁師達を相手に話しているとすればなおさらこの方が自然である。もちろん、これは譬えの違いであって、これによってイエスの伝えようとした真理が変わるわけではない。
イエスの福音はまず口頭で伝えられ、ペンテコステ以後、それが一世紀のパレスチナ地方から、近隣諸国のそれぞれの言語で伝えられて行ったに違いない。それが1世紀後半になって当時の世界語であったギリシャ語で文章化されて行くわけであるが、同時に例えばシリア語のように、すでに文字を持っていた言語には、それぞれ文章化されていったと考えても不思議はない。
Everyman's Libraryの中に、The New Testament A Chronological Arrangement by Principal Lindsayがあり、そのPrologueとして、Oral Gospel(口頭による福音)というのがある。もちろん口頭であるので資料が残っているわけではないが、これに似たような非常に単純な形で各言語で福音が語られていたと思われる。2世紀初頭には、すでにコプト語(エジプト)での聖書の一部が文書化されているし、3,4世紀までには、その他にも古ラテン語、エチオピア語、アルメニア語などの翻訳が出ている。<次号に続く>

注① 『言語学大辞典』では、「シリア語」を引くと、「アラム語」を引くように指示されている。
注② マタイ伝とマルコ伝の言葉の違いを、マタイ伝はヘブライ語、マルコ伝はアラム語と説明されるのを聞いたことがあるが、実はそうではない。エーリ、エローイは、共に「エール」、「エローアハ」に「私の」を表す接尾辞「イ」を付けて。「エーリ」「エローヒ」となったものである。「エローアハ」はアラム語であって、旧約聖書ではダニエル書でのみ使われている。「何ゆえ」を著す「レマー」はアラム語では「レマーナー」が一般的であって、これもダニエル書で見られる。イエスが引用したと思われる詩編22編2節(「エーリー、エーリー、ラーマー、アザヴターニー」)では、「私を捨てた」は、「サバクタニ」(正確には「シェヴァクターニー」)ではなく、「アザヴターニー」(語幹アーザヴ)となっている。実は、「シェヴァクターニー」(語幹シャーヴァク)そのものが、アラム語である。「シャーヴァク」が旧約聖書で使われているのは、やはりダニエル書のみである。イエスは詩編の言葉を引用するに当たって、ヘブライ語ではなく、アラム語を用いたということになる。実際にイエスがどのような音を発したのかは正確に知ることは出来ないが、おそらく「エール、エール(または、アラーヒー、アラーヒー)、レマーナー、シャーヴァクターニー」だったのではなかろうか。アラム語とヘブライ語対訳の新約聖書で見ると、アラム語では「エール、エール、レマーナー、シャーヴァクターニー」(イエスの発した音)となっており、その意味として「アラーヒー、アラーヒー、レマーナー、シェヴァクターニー」(アラム語での意味)と記されている。ヘブライ語の部分では、「エール、エール、レマーナー、・・・」(イエスの発した音)となり、その意味は「エーリー、エーリー、ラーマー、アザヴターニー」(ヘブライ語での意味)となっている。また、ペシッタの行間訳では、「エール、エール、レマナー、シェワクターニー」(イエスの発した音)、その意味は「エローヒー、エローヒー、レマナー、シェワクターニー」(シリア語の意味)となっている。今一つ面白いのは、「何ゆえ」を表す言葉が、イエスの発した音の表記としては「レマーナー」であり、「ラーマー」ではないことである。三者を並べると次のようになる。(ヘブライ語)「エーリー、エーリー、ラーマー、アザヴターニー」(アラム語) 「アラーヒー、アラーヒー、レマーナー、シェヴァクターニー)(シリア語) 「アラーヒー、アラーヒー、レマーナー、シェワクターニー)アラム語の「アラーヒー」の表記がマルコにある「エローイー」であろう。これを見ても、アラム語とシリア語がほとんど同じであることが分かる。vがwに近いことは、Moskvaが日本語では「モスクワ」と聞こえるのと同じである。また、ギリシャ語表記が「シェ」でなく「サ」となっているのは、shの音を持たないギリシャ語がsで代用したものである。shとsの違いで面白い聖書の記事 は、士師記12章にある「シイボレト」と「シボレト」(口語訳で「シボレテ」と「セボレテ」、新改訳で「シボレテ」と「スィボレテ」)である。
注③ エウセビオス『教会史』巻一には、エデッサのアブガロス王がイエスに宛てた手紙とその返事の写しと言われるものが載っている。

 

6. 空海(弘法大師)は景教と関係があったのだろうか?

ブラッドフォード・ハウディシェル (会員、奈良)
前回の会報で、私は景教徒が古代日本に来たかも知れないと思わせる事柄について論じました。歴史的脈絡を見ると、その可能性があるように見えますが、しかし、来日したと語る歴史的記録はありません。唐時代、景教が活発に活動しており、同じころ日本は、その文明から多くの文化的アイデアを導入していました。 つまり日本への扉は大きく開かれていたのです。
尊敬すべき教会史家であるケネス・スコット・ラトゥレット博士は、このことに関して興味深い見解を示しています。彼は、次のように語っています。「唐王朝の時代、クリスチャン達あるいは、キリスト教の影響が中国の東方文化衛星都市(韓国と日本)にどのように移動したかを正確に証明することができません。 多くの韓国人や日本人が長安に来たことは知られています。彼らが、その国際都市で、そこに住んでいるクリスチャン達と出会うこと、また印象に残った教えを自国に持ち運んだ可能性があるように見えます・・・」(英語の原本からの翻訳)。①
中国に行った人たちの中に、弘法大師として知られ、真言宗開祖の空海がいました。数人のクリスチャン達は、彼が中国滞在中に景教宣教師と接触したであろうと憶測しています。私は高野山に行った時、そこの数人(真言宗僧侶たちと他の人々)に、そのことを質問したところ、私は驚くほど肯定的な答えを受け取りました。私が質問した夫々の人が、「空海は景教から学んだということは大いにありうる、なぜなら彼は誰からでも学ぶことに興味を持っていたからです」と言いました。他の情報収集家たちは、高野山で同じ印象を見出したと報告しています②。私が空海について調査し始めた時、私は、彼が彼の仏教体系に多くの考えを組み入れた非常に聡明な人であることを知りました。
空海は、紀元804年に中国に行き、首都である長安で2年間過ごしました。当時、その市には3つあるいは4つの景教会堂がありました。事実、空海は、長安の中心教会である大秦寺の近くにある仏教修道院に住んでいました。有名な景教碑文を見たり読んだりしたとの憶測があります。
今から約100年前、情報収集家のE. A. Gordon夫人は、弘法大師が景教の影響を受けたという、ありえそうな話にたいそう魅了されたので、夫人は和歌山県高野山の奥の院に、その複製品の石碑を建てることにしました③。この複製品は今日も、空海が景教の影響を受けたであろうと信じる人々の存在を証言しています(写真)。
もともとの景教碑は、紀元781年に西安に建立されました(歴史家たちは、これが首都内に建てられたか、町の外にあった景教修道院に建てられたか明確にしていません)。その碑文に、建立の1世紀半以前の景教宣教の創立や景教神学の概要が記されています。多くの言語や表現方法は、仏教や儒教からの借用ですが、この神学的概要は、景教がキリスト教であることを我々に明確に示しています。その碑文は、景教の指導者の一人である景浄(Adam とも呼ばれています)によって著されました④。
興味深いことに、この景浄は、「貞元新定釈教目録」と題する古代記録の中で語られています。つまり、仏教経典を中国語に翻訳することを望み、先ごろ到着したインド人仏教僧の手伝いとして景浄の名前が語られているのです。その翻訳文は中国皇帝に謹上されましたが、彼はそれを善しとしませんでした。そこには二つの異なる宗教が 混合する傾向がみられ、双方の完璧な味わいが失われていたためでした。そこで、皇帝は、二人が一緒に働くことを禁止し、そして結果的に仏教経の翻訳者の名前はインド人僧侶の名のみが記されたのです。 彼の名は、 般若(Prajna とも呼ばれます) といい、その経典は 「大乗理趣六波羅蜜多経」と題されています。この事業の約20年後、空海が長安に到着し、言い伝えによると彼は般若のもとでサンスクリット語を学んだとされています(私は、空海が景浄あるいは、他の景教宣教師と出会ったという歴史的記録について聞いたことがありません)。空海が日本に帰国した時、「大乗理趣六波羅蜜多経」を含む多くの経典を持ち帰りました⑤。
その経典にキリスト教的観念を組み込んだと言う可能性に、数え切れないほどの情報収集家たち、しかも保守的な歴史家でさえも魅了されています。歴史家サムエル・ヒュー・モフェット博士(彼は、宣教師の親を持ち、韓国で生まれた)は、景教の宣教師たちが韓国や日本に到達することには懐疑的ですが、般若、景浄、そして空海(天台宗教祖である最澄・伝教大師も同様)の関係を持ったことには肯定的です。モフェット博士は、空海と最澄の二人は紀元後804年に中国の唐に住んでいたと指摘し、そして彼らに対する次のようなコメントを書いています(英語の原文からの訳)。「日本の仏教推移全体でこれほどまでに影響力のあった人物はほとんどいません(空海と最澄ほどに)。般若を通して、景教指導者の景浄と共に、これらの人々の偶然の関係が、日本で発展した大乗仏教の変種の中にキリスト教理論の種をもしかして蒔いたかもしれないと、考える誘惑に抵抗できる人がいるだろうか⑥。<次号に続く(訳者、ハウディシェル俊江)>

① ケン・ジョセフ,シニア&ジュニア, 「隠された十字架の国・日本」, 徳間書店 (東京, 2000), p. 117.
② ケン・ジョセフ,シニア&ジュニア, 「隠された十字架の国・日本」, 徳間書店 (東京, 2000), p. 117.
③ Saeki, P. Y., The Nestorian Monument in China, Society for Promoting Christian Knowledge (London, 1916), pp. 11-2, 32, 37, 92, 214, 240-1.
Gordon, E. A., Messiah, the Ancestral Hope of the Ages, Keiseisha (Tokyo, 1909), pp. 3-4.
④ Saeki, pp. 26, 35, 118ff.
⑤ Saeki, pp. 71-5. Saunders, E. D., Buddhism in Japan, Charles E. Tuttle Co. (Tokyo, 1964), p. 154. 川口一彦「景教のたどった道」キリスト新聞社, (東京, 2005), p 113.
⑥ Moffett, S. H., A History of Christianity in Asia, Volume I: Beginnings to 1500, Orbis Books (Maryknoll NY, 2001), p. 302.


報 告

①景教講演「司馬遼太郎と景教」の講演CDかテープの発売ご案内
川口一彦代表が、今年の1月から「司馬遼太郎と景教」と題して公開講演会を開催(右は、2月の講演写真。愛知県春日井市松新公民館にて)。
司馬遼太郎が景教を語っている著書は「空海の風景」「ペルシャの幻術師」「兜率天の巡礼」。ともに文春文庫発行。
講演要旨のCDかテープが必要な方は電話・ファクスか手紙またはemailでお申し込みください。費用は送料込1000円。郵便振込用紙で振り込んで下さい。

②「世界景教セミナー日本講演」の予定
2010年秋に「世界景教セミナー日本講演」(仮称)を計画しています。会場は京都、会期は未定ですが、このセミナー開催のためにお祈り下さい。詳しくは次号に発表できればと考えています。

③韓国の景教研究家、鄭学鳳博士が来日
高野山と京都を見学(川口代表、代表の教会員の会員や湯澤牧師が案内)。
昨年、鄭牧師が「景教」を出版(右の写真)。

会計報告・2009/12/1~2010/2/28 会計責任者・川口一彦
*収入/134,921円
内訳:会費/4名×3,000円=12,000円。献金19名=122,921円
*支出/35,616円
内訳:会報の発送費・印刷インク代、翻訳費ほか
*差引/99,305円   
現在額 216,145円

景教のシンボル「大秦景教流行中国碑」(西安市)のコピーの建設資金のためにご献金下さい。
郵便振替 口座記号・口座番号・口座名「00840-9-169580 日本景教研究会

「景教」会報誌を活用して下さい
景教に関する論文や遺跡の発表の場として本誌を設けましたので、ご活用下さい。また「景教と私」とのテーマで景教から学んだことその他を寄稿、投稿して下さいますなら嬉しい限りです。


 

 


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