ある日、穂森さんが名刺を渡して下さりながら、
「このサイトに、なんでも結構です、証しを書いてください」
とおっしゃった。ちょうど第2回国会クリスマス直前の、大詰めのスタッフ会の後、スタッフの皆さんとレストランで食事をとっている時のことだった。
何でもいいから書けというお話に、少しだけ心が動かされて私は聞いた。
「原稿用紙何枚くらいですか」
「何枚でも結構です」
「・・・・・・」
(本当に、私が書いてもよいのかしら)。
ずいぶん昔の話だが、小説家を目指して文章修行していた時の感覚がよみがえってきたような気がした。
それは私がまだ奈良に暮していた頃の話だった。古都・奈良ほどじっくりと、文学をするのに適した場所はない。万葉のロマンが溢れ、市内には志賀直哉の旧居跡もあり、文学の匂いがぷんぷんしている。それでいい気になって文芸誌に投稿し続けたのだが(私が志していたのは純という名のつく文学だった)、結局一度も入選することはなく、最後の作品を書き上げた直後にひどく体を壊し憔悴しきってしまい、それを機にきっぱりと文章を書くことからは遠ざかっていた。高校生が芥川賞を受賞する時代に、箸にも棒にもかからなかった私だった。
私がまだ文学界だ群像だすばるだと騒いでいた頃(すべて文芸誌の名前です)、或る時父がぽつりと言った言葉がある。
「お前にはまだ、小説は書けないよ」
その時私は黙って聞いていた。何となくわかったような、わからないような気持ちだった。当時はとにかく何でもいいから書いて、そして世に出たいという傲慢で不純な思いが先行していた。そんな私が、まともな文章を書けるはずもなかった。それにそろそろ、文学の世界にありがちな「虚」の世界に飽きて「実」の世界を歩き出しなさいと神様からお達しを受けたような気もしていた。
やがて私は、住んでいた奈良から大阪は船場にある小さな貿易会社に勤め始めた。
そして手紙すらまともに書かない(でも、めっちゃ楽しい)生活を送るようになっていった。
当時大阪での伝道集会のため月に一度は来阪くださっていた平野耕一牧師には、お目にかかるたびに、
「書き続けなさいよ」と叱咤激励をいただいていた。
私が貿易会社に就職する以前、奈良から先生の元へよく手紙を差し上げていたが、私の書いた浅薄な心情の吐露も受けとめてくださり、
「あきらめては駄目だよ」と優しく励ましてくださったものだった。
しかし、大阪・船場。
昔ながらの問屋街に溢れる商人パワーはすさまじく、たちまちにして私は書くことよりも「商売」の魅力にとりつかれてしまうことになる。
ご夫婦が経営者であとは社員が3人だけのとても小さな、おしぼりタオルを輸入して販売する会社。少ないのは社員の数だけで、業績では同業の国内5指に入るほど堅調な会社だった。当然仕事は厳しかった。会長はこの道40年の強面の商売人で私は入社早々から、怒鳴られてばかりだった。
銀行に提出する輸入書類も、私が作成すると訂正印だらけ。あまりの訂正印の数の多さに会長も「まるでお花畑やなあ」と、あきれ果てる始末だった。銀行の閉まる3時までに間に合わせないといけないため、とにかく入りたての頃は、会社と銀行を行ったりきたり、船場の街を汗だくになって走り回っていたのを覚えている。
私が慣れない仕事で四苦八苦しているのを見て、ほかの2人の社員にはよく助けていただいた。営業のYさんは、「かまへん、銀行行ったるでえ」とよく私に代わって書類を銀行に届けてくれたりした。また、もう一人の社員は、笑顔のとびっきり素敵な女性で、手取り足取り私に社内の仕事を教えてくれたものだった。大音祐子さん。今でも私の大切な友人である。彼女のご両親は、敬虔なクリスチャンとのことであった。
私のぶきっちょな仕事ぶりを微笑ましいと思ってくださったのか、会長も私のことを可愛がってくださるようになっていった。そして私は、1円でも多く儲けるために怒号すら飛び交うような会社で働くことが、いつしか楽しくて仕方なくなってしまった。私自身も下手な大阪弁を使っては笑いを誘いながら、活気あふれる商売の世界に潜り込んでいった。
たくさんの魅力あふれる方たちとの出会いが、そこには用意されていた。
夢見がちで親に心配をかけることの多かった私が、ようやく「虚」の世界を脱して地に足をつけて歩くことを関西で学び始めたのかもしれない。関西は私という人間を解放し、成長させてくれた土地だった。苦労も多かったが、とにかく毎日が一生懸命という言葉そのものだった。
気がついたら竜宮城で遊びすぎた浦島太郎のように、時間が経過していた。
今でも正直なところ、今ある自分は脱け殻で、本当の自分は関西に置き忘れてきてしまったような感覚に襲われることがある。東京の雑踏を歩いていても、つい大阪の街並みと楽しかったときの事を思い出してしまって、よくない。金曜の夜には決まって歩いた銀杏並木の御堂筋の、賑やかだが風雅な佇まいは、仕事で高ぶった神経を程よく鎮めてくれた。居並ぶ心斎橋ブティックの上品な夜景。待ち受けるヴォーリス建築の、威風堂々とした大丸心斎橋店では時折買い物も楽しんだっけ。そして難波にたどり着く頃には、徐々に出現する蒸せ返るような雑多な人通りに歩行もままならなくなり、「これが大阪や」と実感する。梅田の阪神・阪急百貨店と歩道橋が交差する有名な景色は、先日もテレビのニュースに流れていた。何度あの歩道橋を通ったことだろう。あの時私は何歳だったの。懐かしさのあまり胸が痛くなった。夕刻の淀屋橋の官庁街は今も、通勤の人波で溢れているだろうか。
大阪は私にとって、どこへ行っても人への愛おしさをかきたてられる心温まる場所だった。
創世記によればロトとその妻は、ソドムから逃れ出るとき、
「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。振り返れば塩の柱になる」
と神から言われた。
私はといえば、後ろを振り返るなという神の戒めを守るどころか、昨年来ずっと塩の柱にされたまま、のたうちまわってきた。後ろを振り返り振り返り、時には生木を剥がされるような痛みを覚えながら、大都会東京で、この塩柱は右往左往してきた。
大阪が、私にとってのソドムだったと言いたいのでは断じてない。そうではないのだ。私にとってのソドムは、私の内面に深く根を張り巣食っていた。クリスチャンになって20年も経つというのに、相変わらず私の思いは常に地上的なことに向けられており、貪りを繰り返していた。貪りを自分で止めることは不可能だった。地上は私にとって余りに魅力的な場所であり、真の意味で天国を見上げる暇はなかった。
奇妙な話だが、一見すると私は信仰の優等生でもあった。非常に多忙な日々であったが礼拝を休んだことはなく、教会ではオルガニストとして奏楽をし、クリスマスやイースターでも聖歌隊の伴奏をした。土曜日は奏楽の準備のために費やし、その他にも青年会、愛餐会、信徒総会、家庭集会、祈り会、トラクト配り、やることを挙げればきりがなかった。
教会でおとなしく座っていれば、初めて教会を訪れた方からは「牧師さんのお嬢さんですか」と尋ねられたりする。牧師夫人となるための縁談をいただいたことも、一度や二度ではなかった。私は黙ってさえいれば、人様に敬虔な印象を与えているようだった。私が認識している自分と、周囲が知っている私という人間のギャップに戸惑いながら、常に安定できる自分の居場所を求めていた。
ずっと、関西に永住することしか考えていなかったのだが、いろいろな経緯があって一昨年5月、17年間過ごした関西から神奈川に戻ってきた。連休を利用して一人暮らしをしていた奈良のアパートを引き払い、お世話になった西奈良ルーテル教会の皆さんにご挨拶をして、住み慣れた、第2の故郷ともいうべき関西を後にした。
5月の連休ともなれば奈良は、その雄大な大地のすみずみに至るまで新緑がいっせいに芽吹き、奈良公園の親子鹿は嬉しそうに園内を歩き回り、観光客も数を増す。私もよく教会の仲良しの友人たちとお弁当を持ってピクニックや花見を楽しみ、公園内でジョギングやウオーキングをしたものだった。
皆さんにご挨拶をする時、涙を流しておられるご婦人もいた。それから、長年病いと闘っておられる信仰の先輩方にも、長い年月、共に祈りお交わりをしたかけがえのない時間に対するお礼を精一杯お伝えした。必ず遊びに来てね、と色々な方が仰ってくださった。私は笑顔でうなずいていたと思う。
でも私は凡庸な人間に過ぎず、大伝道者でも実業家でもないから、いったん引っ越してしまえばこれからは気軽に西へ東へと移動できる生活が待ってはいないこともどこかで予想していた。
わずかな家財道具とともにようやく神奈川の狭い実家に引越しを終えた時、父からは「お前、年取ったなあ」と言われてしまった。その言葉は事実だった。
私は青春の瑞々しい時代を関西で費やし、そして今は敗残兵のように神奈川の実家に身を寄せている。今の私には、そんな表現が相応しかった。心身の疲れも甚だしかった。
それでも、転んでもただではおきぬ性格。おめおめと運命に甘んじていたわけではない。それから2ヶ月も経たぬうちに、私は大阪へとんぼ返りのように遊びに行ってしまった。
7月初めの大阪は私の滞在中ずっと、止むことなく雨が降り続いていた。その年の関西は空梅雨だった。それなのに、私が来た途端に大雨になったと言われてしまうほどだった。
私は男性に逢いに行っていた。以前交際していた人に、転居の葉書を出したことがきっかけで連絡を取り合うようになり、のこのこと再会のために大阪まで出かけていったのである。そして夕食を共にし、二人にとって想い出の詰まった大阪をくまなく車で案内してもらった。
決して泣かない私に代わって、街が泣き濡れてくれているのかと錯覚するほど街は雨に濡れ、黒々とした道路にネオンが反射していた。かつてその人の大阪人らしくやんちゃな、往年の不良青年のような魅力に惹かれ好きになってしまった私だが、その時の彼には輝きがなく初めて弱さのようなものが滲んでいて、切なかった。
その人は私が貿易会社に入ったときに営業をしていた、少し歳の離れた、私に関西の魅力を教えてくれたYさんだった。
「たこ焼き行かへん」
それが何となく、付き合いが始まった時の言葉だったと記憶している。それから、食事や映画などに連れて行ってもらうようになった。
でもYさんは離婚暦のある人で、交際には私の両親の反対もあり難しい思いで過した年月があった。それに彼は仏教のしきたりを堅持する旧家のお坊ちゃんだったが、結婚に失敗しているためか道徳心のかけらもない、大変荒れた生活を送っていた。仕事のできる人だったが、勤務態度も決してよいとはいえなかった。また日本人のくせして教会に通う私がおかしいといってよく嘲笑もされたものだった。
数年前に別れた先妻はアメリカ人でカトリック教徒、大恋愛だったといつも聞かされていた。そして、アメリカにいる愛息がどんなに可愛いかということも。もし先妻が来日してやり直すことになるのなら、私は身を引かなければと思っていた。しかし彼の気持ちはいつも定まらないために、私の心は乱れるばかりだった。
悩んだ末、ミッション・バラバの鈴木牧師にお祈りをしてもらいに集会へ行ったこともある。バラバの妻たちの信仰に学べばいつかは彼も心が変わるでしょうと、藁にもすがる思いだった。またある教会の婦人は、離婚しているなら、夫婦が復縁してやり直すようとりなすのが信仰者のとるべき態度だと私に忠告した。いろいろな意見があったが、この交際は到底、信仰的に未成熟だった私には受け入れられる類のものではなかった。ある日とうとう爆発し、私は大声で彼を罵倒してしまった。これが結末だった。やはり私の手に負える男性ではなかったのだ。Yさんは、会社を辞めていった。
しかし別離の後も大阪からは撤退せずに、私はそれまで以上に頑張って仕事や教会生活を続けた。幸いよき友人たちがそこに備えられ、私は慰めを得た。
私は生まれて初めて実家を出て、一人暮らしを始めた。奈良の私立大学に勤めていた父が退職し、両親が神奈川に元々あった家へ引き揚げたのである。私は奈良のあやめ池という閑静な住宅街にワンルームを借りて自炊をし、毎日そこから大阪まで通勤した。そして寂しくなると大阪の繁華街を歩きながら、小さな祈りを彼のために捧げ続けた。いろいろと問題の多い男性ではあったが、やはりまだ彼のことを愛していたのだった。
会わないでいた年月、Yさんがどういう生活をしていたのか、私から尋ねることはしなかったが、彼の服装や身に着けているものから生活ぶりを想像するのはたやすかった。ハワイかフィリピン帰りのおじさんのような首には金色のネックレス、両手指にはこれでもかというほど太い指輪がはめられていた。彼は20歳も歳下の女性と長年深い関係にあり、しかも彼女が病気であることを打ち明けた。
話の内容はあまりにおぞましかった。彼に女性がいるということも少なからずショックだったが、その若い女性が彼によって肉体を蝕まれている状況が、私にはよくわかった。
「甲状腺なんだよ。あれは、白血病になるんだってね」
しかし彼の物言いには、俺が病気にしたという歪んだ矜持さえ感じられたので、ひそかに私は戦慄していた。甲状腺は、女優の故夏目雅子さんが罹患していた病気でもある。かつて彼の先妻も、結婚により心身共に傷ついてアメリカへ帰ったと聞かされていた。
それでも先妻とわが子の住むデンバー・コロラドまで離婚後初めて、会いに行ってきたとYさんが話してくれた時は、一筋の光を見る思いだった。
「よかった。お元気でしたか」
あれほど会いたがっていた息子さんのことだ。やっと会いに行く勇気が持てたのなら、家族が回復することを心から祝福しなければならない。
「もう二人とも日本語を忘れていてね。全然日本語が、通じなくなってた」
デンバーは恐らく、日本人などいない田舎町なのだろう。すっかりアメリカ人となり日本語を忘れてしまった息子と、会話が通じなくなってしまったという悲劇を、臆することなく打ち明けられ、私には言葉もなかった。単に肉親を失ったとか、離婚したと一言では言い表せない深い孤独がそこにあるような気がした。ああ彼は、すべてを失ったのだと思った。彼の悲しみに満ちた全身が、それを物語っていた。日本で生まれ育ったハーフの息子が彼はいつも自慢だった。
その後何を話したか、今ではあまり思い出せないのだが、ただ二人の共通の趣味だった映画の話題から自然に、二人とも「ミッション」を観たという話になった。
Yさんは思いのほかあっさりと、あの映画の感動を告白した。
「あれは、すごいよね」
「うん、すごい。泣いた?」
「うん、泣いた」
そのときの彼の表情は、とても素直だった。
翌日は土砂降りだった。私は宿泊先の大阪城公園に程近いホテルの窓から、呆然と雨粒を眺めていた。人間は希望を失うと、肉眼を通して見える景色もその色彩を失ってしまうのだと、ぼんやり考えていた。楽しく苦しく、野放図に生きた大阪での薔薇色の時間が、今私の目の前で急速に灰色に色あせていくのがみえた。
― 貴方はまだわからないのか ―
神からの、声にならない声がホテルの部屋に充満していた。絶望の中で私はそれを聞いた。
できればいずれは、関西へ戻りたいと淡い願いを抱いていた私だった。しかし昨夜の邂逅で、私の計画はもろくも崩れ去ってしまった。偶像のように恋していた人の現実と、罪が支払わなければならない代価の大きさに、打ちのめされていた。
― あなたは、まだわからないのか。 ―
(わかるって、何をでしょうか。私が、何を、わかっていないのでしょうか。)
私は涙目になって神に訴えていた。ノアの洪水の再来みたいに、雨は断続的に降り続いていた。
― あなたは地上で一体何を求めてきたのか。さあもう一度、幼稚園からやり直しなさい ―
その時、携帯電話が鳴った。横浜弁護士会の事務局からだった。
私は神奈川の実家にいる時、軽い気持ちで就職のための面接を受けていた。それは弁護士会事務局の非常勤職員の仕事だった。東京と関西を行き来するための交通費を稼ぐ魂胆で、手っ取り早いアルバイト感覚で選んだ仕事だった。なんという愚かな女なのだろう、私という人間は。これから鼻歌気分で、彼との楽しい遠距離恋愛が始まるとでも思っていたのである。
採用担当の女性は、2回目の面接をするからなるべく早く事務局へ来るようにと私に伝えた。
次号へ つづく
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